Peco's History
10月22日、秋の穏やかな午後、東京は広尾にて産まれる。
父は、その赤ちゃんが舌を横っちょに出す癖のあるところから、
“Peco”
と、名付ける。
その父とは、偉大なる元阪神タイガース監督
“松木謙治郎”
である。
2才の時、父の仕事の都合により、兵庫県芦屋市へーーー。
ここに引っ越した事が、私の芸能への目覚めとなる。
3才で、兵庫県仁川市の江川バレエ団に入り、
クラシックバレエ、タップダンスを習い始める。
その年に初舞台を踏む。
初めての舞台メイクは、目のまわりが真っ青そして、ダブルラインとで、何処から見ても、マメダヌキ!そのものだった。
それと同時にピアノと歌も、習い始める。
踊りも、ピアノも、母が昔やりたかったからという理由から、習わせられた。
しかし、踊りに関しては1度も、レッスンを嫌がったことは、なかった。
幼稚園では、すでに1人で歌って踊って“シンデレラ”をみんなに披露していたらしいーーー。
この頃は、身体は小さかったが頭が大きく(!?)しょっちゅう転んでいた記憶がある。
小学校に入学すると待ってましたとばかり、宝塚好きの母に毎月のように宝塚歌劇に連れて行かれるようになる。ただ、江川バレエ団の発表会は、毎年宝塚大劇場だったため、劇場には私も通い慣れていたけれどーーー。
そこで、目の当たりにした華やかなステージ、豪華な衣装は、小さな私に大きな衝撃を与えた。
毎回、プログラムとレコードを買ってもらい、家では舞台を思い出しながらプログラムの台詞を読みつつ、1人で何役にもなって、レコードにあわせて歌って踊るーーーそれが、だいたい出来てくると、バレエの発表会の衣装を着て家族に無理矢理見せていた。
何か、すんごい子供!?!?どーだろー。
小学校5年生の時、父が 東映フライヤーズの監督となったため、また東京へ。
東京の水があったのか、ここからが私の音楽人生の始まりとなる。
それまでの私の将来の夢は、バレリーナで、ピアノは、ずーっと習ってはいたものの好きな歌を歌うための伴奏をする道具でしかなく、レッスンは必ず初見で弾くというまあ、それはそれで今思うとよくできてたなあーと・・・。
それがある日、テレビを見ていたらNHKの“あなたのメロデイー”という番組で、自分で曲を作って応募するという今まで思ってもみない事に強く衝撃を受け、「これだーーー!」っと。
それからは、ピアノを弾く=曲を作って歌うと言う事となり、ピアノに向かう事が多くなった。でも・・・
ピアノのレッスンでの初見弾きは、変わる事もなく!?レッスン嫌いも、なおらず、母はきっと悲しんでいただろうーーー。
それに輪をかけ、クラシックバレエは小6をもって、やめてしまった。
東京女学館中学校に入学する。
この学校では、学園祭で歌うためには、オーデイションがありーーー
それが何故か私の心を駆り立て、1人でやろうとギターを練習し、オーデイションを受ける。
1年生で、それも1人で受けるなどと言う事は初めてだったようで、うまい・へたと言うより多分、その心意気で合格させてくれたように思う。そして、初めてたくさんの人の前で歌った気分はー
めっちゃ緊張と共に最高の快感だった。
それからというもの、とにかく音楽がますます大好きになり、フォークからロックへ好みも変わっていく。
運よく、ロック好きの兄が4つ上で、私が中3の時にはすでに大学生になっていて、コンサートは、兄に連れて行ってもらっていたので、そこは厳しい父の目も、何とか、かいくぐる事ができた。
踊りはというと、学校ではとりあえず体操部からダンス部へと移りながら、外では、タップダンスとモダンバレエを習っていた。でもこの頃は、だんぜん音楽の方が好きだったなー。
女学館高等学校に進むと、学校には内緒で、自作の曲をコンテストに送るようになる。でも、情報は少なく、唯一、父が原稿を書いているスポーツ新聞が、私の情報源だった。
そして、高3の時、小さな小さな記事で”全国フォーク音楽祭 出場者募集”を目にした。
それは葉書応募で、とりあえずスタジオに呼ばれて歌うという形式だった。
その時は、友だちと2人で、ピアノとギターのデユオで受けた。
関東甲信越地区は、880組の応募だったそうでラジオ局の人には、「くじ引きに当たるようなもんだと、思って下さい」と言われて帰った。
が、その くじ引きに当たってしまったのだった!!! 10組で決勝そしてその中の2組に!!!
そして全国大会へ。セ−ラ−服のドしろうとは、なんと恐いもの知らずで楽屋では、他のバンドのものまねをしたり、緊張する大人達を笑わせに走っていた!?それが、グランプリに!?!?!?
縁はあるもので、その時の審査員の中に YUMING がいて、一言!
「お嬢ちゃん、歌うまいねえーーー。」
そして、同じ事務所に高校卒業と同時に所属する。一緒に出ていた友だちは、プロにはならないと決めたため、またここで、1人で頑張る事になった。
19才、コロンビアレコードからデビユーを果たすが、YUMINGが、旦那様と会社を作って出たため、事務所が、つぶれてしまった。
ここで、どーしたものかと思い、自分の夢について考えたところ”歌って、踊って、笑っていたい!”と。
で、ミユージカルのオーデイションをとりあえず受けてみようと思い立ち、博品館でのある公演に出ることになる。
そうこうしていると、ある日 YUMING から、電話があり、コンサートツアーのコーラスをやれ!と踊れる人が必要だ!と、ここからが、また本当の意味での私の音楽人生のスタートラインだった。
その後、どのようにして今日の私に至るのでしょうか???
ここまでが、まず第一部です。あとは、また後日、どーぞお楽しみに!